2023年10月17日、米国国際貿易委員会(USITC)は、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights Agreement; TRIPS)」の一時的な適用除外/履行義務免除(以下、「TRIPS waiver」)をCOVID-19ワクチンだけでなく診断薬及び治療薬にも拡大するか否かという問題に関して調査した報告書(497ページ!)を発表しました。
- 2023.10.17 USITC RELEASES REPORT ON COVID-19 DIAGNOSTICS AND THERAPEUTICS AND FLEXIBILITIES UNDER THE TRIPS AGREEMENT
- USITC報告書: “COVID-19 Diagnostics and Therapeutics: Supply, Demand, and TRIPS Agreement Flexibilities” United States International Trade Commission, October 2023, Publication Number: 5469, Investigation Number: 332-596 (URL: https://www.usitc.gov/publications/332/pub5469.pdf)
1.背景
2022年6月17日のWTO閣僚会議(MC12)において合意された、COVID-19パンデミックに対処するために必要な範囲で権利者の同意なしにCOVID-19ワクチンの製造及び供給に必要な特許の対象の使用を適格国に認める「TRIPS waiver」に関して、その決定日から6カ月以内に、WTO加盟国は、その対象をワクチンだけでなく、COVID-19の診断薬及び治療薬にも拡大するかどうかを決議する予定でした。
- 2022.06.19 ブログ記事: WTO閣僚会議 COVID-19ワクチン対象にTRIPS waiver採択 製薬団体は「科学者への冒涜」、「逆行」、「有害な先例」と痛烈に批判
しかし、2022年12月6日、米国通商代表部(以下、「USTR」)は、COVID-19の診断薬及び治療薬に関して、需要と供給、価格帯、生産とアクセス等を調査することによって「TRIPS waiver」の拡大是非議論とWTOの決議に役立つ報告書を提出するよう米国国際貿易委員会(以下、「USITC」)に要請すると発表するとともに、その決議期限を延期することを支持しました。
- 2022.12.06 米国通商代表部(USTR) press release: U.S. to Support Extension of Deadline on WTO TRIPS Ministerial Decision; Requests USITC Investigation to Provide More Data on COVID-19 Diagnostics and Therapeutics; Summary of Consultations
結果、「TRIPS waiver」のCOVID-19診断薬及び治療薬への拡大是非議論は各国間の合意に至らず、2022年12月16日、WTOのTRIPS理事会は、その決議の延期を勧告しました。
- 2022.12.17 ブログ記事: WTO TRIPS理事会 COVID-19診断薬・治療薬への「TRIPS waiver」拡大議論 決議延期を勧告
今回、USTRがUSITCに要請していた、待ちに待った報告書が完成し発表に至った、というわけです。
この報告書に記載された調査結果及び分析内容から、果たして、延期されていた「TRIPS waiver」のCOVID-19診断薬及び治療薬への拡大是非を巡る議論は進展するのでしょうか。
2.報告書の内容
USITCの報告書は、COVID-19の治療とアクセスにおける知的財産の役割について、これまでの情報や意見を収集、確認し、総括をしているに留まっており、「米国は「TRIPS waiver」をCOVID-19診断薬及び治療薬にまで拡大することを支持するのか、反対するのか」を解決するための方向性を何も示していません。
支持派と反対派のどちら側のグループも敵に回したくない?
しかし、情報をまとめ、議論の土台となる情報の偏りやギャップを埋めたという点では、報告書は一定の役割を果たすものであると評価できるかもしれません。
報告書は、COVID-19診断薬及び治療薬において、知的財産権及びそのボランタリーなライセンスが、発見やアイデアから研究開発を経て市場へと移行させるために重要な役割を果たしたことも記述されており、アクセスの問題はあれど、結局のところ、知的財産権がアクセスの障壁となっているという決定的な証拠は見つからなかったことを暗に述べているようにも読めます。
報告書は以下のチャプターから構成されています。
- Chapter 1: Introduction
- Chapter 2: Background on Intellectual Property and Regulations
- Chapter 3: Definitions and the Universe of COVID-19 Diagnostics and Therapeutics
- Chapter 4: COVID-19 Diagnostics and Therapeutics Manufacturing Supply Chain and Trade
- Chapter 5: Approaches to Access the IP Associated with COVID-19 Diagnostics and Therapeutics
- Chapter 6: Availability and Consumption of COVID-19 Diagnostics and Therapeutics
- Chapter 7: Views of Interested Persons
- Chapter 8: Literature Review
報告書の中で注目したいポイントを以下に抜粋しました。
Intellectual Property Agreements from Research and Development to Commercialization
“Moving COVID-19-related discoveries from idea to market can be a complex and costly process involving a wide range of private and public actors including universities and research institutes, governmental and multilateral agencies, large firms, and small and medium-sized enterprises (SMEs). Written contracts provide the legal framework for the creation and use of IP during this process.”
人類の叡智(知的財産)を結集して生まれたmRNAワクチンをはじめ、イノベーションが世界を変え、多くの人々を救いました。このプロセスには、さまざまな官民の関係者たちが関与して複雑でコストのかかるものでしたが、知的財産のライセンスという法的枠組みによって、市場へと移行することが実現できましたよね。
Advantages and Challenges Associated with VLs (voluntary licenses)
“Originator companies began negotiations for licensed production early—before clinical trials and regulatory processes had been completed. This reduced the lag time between the introduction of original products in high-income markets and licensed products in lower-income markets. Another key advantage of [voluntary licenses] VLs is that they provided a mechanism for technology transfer and knowledge sharing. Originator companies provided access not only to patented information but also to technical know-how about manufacturing processes and, in some cases, assistance with regulatory processes. This advantage was not available to countries relying on [compulsory licenses] CLs or the LDC exception to the TRIPS Agreement.”
早い段階でのライセンス交渉が低所得国市場での製品導入にも貢献しましたよね。そして、ボランタリー・ライセンスでは、特許情報だけでなく、製造プロセスに関する技術的ノウハウの提供や、場合によっては薬事規制プロセスも支援しました。このようなことは、単に「特許放棄」や「強制実施権」では実現できませんよね。
Prices, Purchases, Donations, and Consumption of Diagnostics and Therapeutics
“A central question regarding access to COVID-19 diagnostics and therapeutics is whether, under existing IP rules, supplies are currently sufficient at affordable prices and available to anyone who could benefit from them. Answering this question is challenging owing to a lack of data. … Almost all countries have access to therapeutics, but many are excluded from the avenues that offer the potential for lower prices and greater affordability.”
現行の知的財産権ルールの下で、供給が、現在、その恩恵を受けうる誰にとっても、手頃な価格で十分であるかどうか、入手可能であるかどうか、この疑問に対する回答は、データ不足のため困難・・・。つまり、知的財産がアクセスの障害となっている証拠は見つからなかった?
ほとんどすべての国で治療薬へのアクセスが可能であるのに、多くの国は、より手頃な価格で提供される可能性のある手段から排除されている原因は何なのでしょう・・・。
3.業界の反応
USITC報告書の提出を要請した米国通商代表部 (USTR) のキャサリン・タイ氏(Katherine Tai)は、
「USITCの調査結果を慎重に検討する。議会とすべての利害関係者がこの報告書を検討することを楽しみにしている。・・・この報告書に記載された事実とUSITCが綿密に収集した記録が、世界の公衆衛生と経済の回復力にとって極めて重要な問題について、国内、世界各国、そして世界貿易機関(WTO)において、思慮深く建設的な政策討議と審議のプロセスに役立つことを願っている。」
と述べています。
- 2023.10.17 USTR press release: Statement from Ambassador Katherine Tai on the Release of the USITC Report on COVID-19 Diagnostics and Therapeutics
そして、早速、この報告書について、いくつかの団体が声明を出しています。
BIO(Biotechnology Innovation Organization)は、
「この報告書は、COVID-19診断薬及び治療薬への世界的なアクセスを増加させるために、「TRIPS waiver」の拡大・・・が必要であることを裏付ける、信頼できる証拠は存在しないという我々の姿勢を改めて示すものである。」
との声明を出しました。
- 2023.10.17 BIO press release: New USITC report shows “no credible evidence” supporting a TRIPs waiver expansion
米国商工会議所(U.S. Chamber of Commerce)は、
「報告書は、知的財産権を活用したライセンス提携の成功を強調しており、知的財産権がこれらの製品へのアクセスの障壁となっているという主張を立証するものではない。・・・知的財産政策における米国の世界的リーダーシップを再確認し、権利放棄の拡大をきっぱりと拒否するよう、政権に強く求める。」
との声明を出しました。
- 2023.10.17 U.S. Chamber of Commerce press release: New USITC Report Validates the Role of Intellectual Property to Advance COVID Innovations During Pandemic
PhRMA(米国研究製薬工業協会)は、キャサリン・タイ氏のコメントに対して、
「TRIPS免除の拡大は不必要であり、知的財産を外国の競争相手に渡すことによって、米国の労働者、患者、技術革新に損害を与える。
COVID19の公衆衛生上の緊急事態は終息し、手ごろな価格で多くの場合無料の治療法が豊富にある。バイデン政権をはじめとする世界の指導者たちは、このイデオロギー論争を越えて、真のグローバル・ヘルスの課題に焦点を当てるべき時である。」
との声明を出しています。
- PhRMA: https://twitter.com/PhRMA/status/1714633730747240561
- 2023.10.17 PhRMA press release: PhRMA Statement on U.S. International Trade Commission Report on Expanding the TRIPS Waiver
MSF(Médecins sans frontières(国境なき医師団))は、
「我々は、知的財産が中低所得国におけるCOVID治療・診断薬への公平なアクセスを実現するための大きな障壁となっていることを確認した、USITC報告書による検証を評価する。
この報告書はまた、こうした障壁に対処するために自主的な対応のみに頼ることの限界を明らかにしている。COVIDが世界的大流行(パンデミック)であると宣言されてから3年以上が経過しており、これはかなり遅れた、しかし重要な認識である。」
との声明を出しました。
同じ報告書なのに、TRIPS waiverの拡大反対派は「知的財産は障壁であるとの主張は立証できなかった」とコメントし、拡大支持派は「知的財産は障壁であることが確認された」とコメント・・・。
な、なんで・・・。どちらのコメントを信用すれば・・・。
他人のコメントに頼らず、自分で報告書を読んで、自分で判断するしかないですね。
ミャオくん、報告書は497ページもあるぞ。
AIなら一瞬で読めますよ。あ、ピポ先輩もAIでしたね。
・・・
4.パンデミックへ対抗するために
2023年5月5日、世界保健機関(WHO)は、COVID-19感染症に関する「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)の宣言を終了すると発表しました。
しかし、安心することはできません。
この教訓を生かして、次に起きるかもしれない新たなパンデミックに国際社会としてどう対抗していくか知恵を絞ることが重要です。
COVID-19パンデミックへの対応において国際社会が連帯と公平性を示すことができなかったことを踏まえ、WHOの政府間交渉機関(Intergovernmental Negotiating Body (INB))が起草した、「パンデミックの予防、準備、対応に関して加盟国に対して法的拘束力を有することとなる新たな条約、協定、その他の国際文書(WHO convention, agreement or other international instrument on pandemic prevention, preparedness and response)」(「WHO CA+」又は「WHOパンデミック条約」)が、2024年5月の第77回WHO総会提出を目指して、現在、加盟国間で議論されています。
- 2023.02.20 ブログ記事: パンデミックの予防、準備、対応に関するWHO条約、協定、その他の国際文書「WHO CA+」の合意に向けた政府間交渉の基礎となるゼロ ドラフト
次に起きるかもしれない新たなパンデミックに国際社会としてどう対抗していくか。知的財産が重要であることに疑いはないはずです。そのうえで、医薬品アクセスの改善に向けて知恵を絞っていただければと願います。
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