カルベジロールの虚血性心不全患者死亡率減少効果の顕著性: 知財高裁平成23年(行ケ)10018
【背景】
「うっ血性心不全の治療へのカルバゾール化合物の利用」に関する特許(第3546058号)の訂正審判(訂正2010-390052)審決取消訴訟。争点は、訂正発明の進歩性。
手続きの経緯は下記のとおり。
- 2007年9月13日、沢井製薬は、無効審判請求(無効2007-800192)し、特許庁は、特許無効審決。
- 2009年4月13日、上記審判手続中に本件特許の移転登録を受けた原告は、審決取消訴訟を提起(平成21年(行ケ)10101)するとともに訂正審判を請求(訂正2009-390065)。裁判所は、審決を取り消す旨の決定をし、事件は特許庁に差し戻された。
- 2010年3月29日、特許庁は、同審判手続きにおいて請求された訂正を認容した上で、特許無効審決(無効2007-800192)。
- 2010年5月6日、原告は、上記無効審決の取消しを求めて訴訟を提起(平成22年(行ケ)10140)するとともに訂正審判を請求(訂正2010-390052)したが、特許庁が審判請求不成立の審決を出したため、原告は、本件審決取消訴訟を提起した。
訂正発明1:
利尿薬,アンギオテンシン変換酵素阻害剤および/またはジゴキシンでのバックグランド療法を受けている哺乳類における虚血性のうっ血性心不全に起因する死亡率をクラスⅡからⅣの症状において同様に実質的に減少させる薬剤であって,低用量カルベジロールのチャレンジ期間を置いて6ヶ月以上投与される薬剤の製造のための,単独でのまたは1もしくは複数の別の治療薬と組み合わせたβ-アドレナリン受容体アンタゴニストとα1-アドレナリン受容体アンタゴニストの両方である下記構造:
(略)
を有するカルベジロールの使用であって,前記治療薬がアンギオテンシン変換酵素阻害剤,利尿薬および強心配糖体から成る群より選ばれる,カルベジロールの使用。
【要旨】
裁判所は、訂正発明1における顕著な作用効果を考慮することなく同発明が特許法29条2項に該当するとした審決には誤りがある、と判断した。事案にかんがみ、取消事由4(顕著な作用効果を看過した誤り)について下記のとおり判断した。
「当該発明が引用発明から容易想到であったか否かを判断するに当たっては,当該発明と引用発明とを対比して,当該発明の引用発明との相違点に係る構成を確定した上で,当業者において,引用発明及び他の公知発明とを組み合わせることによって,当該発明の引用発明との相違点に係る構成に到達することが容易であったか否かによって判断する。相違点に係る構成に到達することが容易であったと判断するに当たっては,当該発明と引用発明それぞれにおいて,解決しようとした課題内容,課題解決方法など技術的特徴における共通性等の観点から検討されることが一般であり,共通性等が認められるような場合には,当該発明の容易想到性が肯定される場合が多いといえる。
他方,引用発明と対比して,当該発明の作用・効果が,顕著である(同性質の効果が著しい)場合とか,特異である(異なる性質の効果が認められる)場合には,そのような作用・効果が顕著又は特異である点は,当該発明が容易想到ではなかったとの結論を導く重要な判断要素となり得ると解するのが相当である。」
裁判所は、上記観点から以下のとおり検討した。
ア 刊行物Aとの対比
「訂正発明1については,カルベジロールを虚血性心不全患者に投与することにより,死亡率の危険性が67%減少する旨のデータが示されている。
これに対し,刊行物Aには,カルベジロールは虚血性心不全である冠動脈疾患により引き起こされた心不全の患者の症状,運動耐容能,長期左心室機能を改善する点の示唆はあるものの,死亡率改善については何らの記載もない。また,刊行物Aには,カルベジロールを特発性拡張型心筋症により引き起こされた非虚血性心不全患者に対し,少なくとも3か月投与したところ,左心室収縮機能等の改善が認められたことが記載されているが,死亡率の低下について記載はない。」
イ その他の公知文献との対比
「~上記のとおり,本願優先日前,β遮断薬による虚血性心不全患者の死亡率の低下については,統計上有意の差は認められていなかったと解される。また,本願優先日前に報告されていたACE阻害薬の投与による虚血性及び非虚血性を含めた心不全患者の死亡率の減少は16ないし27%にすぎず,また,虚血性心不全患者の死亡率の低下は19%にすぎなかった。したがって,訂正発明1の前記効果,すなわち,カルベジロールを虚血性心不全患者に投与することにより死亡率の危険性を67%減少させる効果は,ACE阻害薬を投与した場合と対比しても,顕著な優位性を示している。」
ウ 虚血性心不全と非虚血性心不全の治療効果の差異
「虚血性心不全は冠動脈疾患を原因とする心不全であるのに対し,非虚血性心不全は冠動脈疾患以外の原因で発生する心不全であり,その発生原因が異なるため,生存率も異なり(虚血性心不全の方が非虚血性心不全より生存率が悪い。),薬剤投与の効果も異なるということが,本願優先日前の当業者の技術常識であったと認められる~。~以上によると,前記のとおり,ACE阻害薬の投与により虚血性及び非虚血性を含めた心不全患者の死亡率が16ないし27%減少したという報告がなされていたとしても,虚血性心不全患者に限った場合,同程度の死亡率減少効果が認められると予測し得るとはいえない。」
エ 以上のとおり,訂正発明1の構成を採用したことによる効果(死亡率を減少させるとの効果)は,訂正発明1の顕著な効果であると解することができる。
「訂正発明1は,カルベジロールを虚血性心不全患者に投与することにより,死亡率の危険性を67%減少させる効果を得ることができる発明であり,訂正発明1における死亡率の危険性を67%減少させるとの上記効果は,「カルベジロールを『非虚血性心不全患者』に少なくとも3か月間投与し,左心室収縮機能等を改善するという効果を奏する」との刊行物A発明からは,容易に想到することはできないと解すべきである。」
オ 被告の主張に対して
「この点,被告は,訂正発明1に係る特許請求の範囲において,「死亡率の減少」という効果に係る臨界的意義と関連する構成が記載されておらず,訂正発明1は,薬剤の使用態様としては,この分野で従来行われてきた治療のための使用態様と差異がなく,カルベジロールをうっ血性心不全患者に対して「治療」のために投与することと明確には区別できないことから,死亡率の減少は単なる発見にすぎないことを理由に,訂正発明1が容易想到であるとした審決の判断に,違法はない旨主張する。
しかし,被告の主張は,以下のとおり採用の限りでない。
すなわち,特許法29条2項の容易想到性の有無の判断に当たって,特許請求の範囲に記載されていない限り,発明の作用,効果の顕著性等を考慮要素とすることが許されないものではない(この点は,例えば,遺伝子配列に係る発明の容易想到性の有無を判断するに当たって,特許請求の範囲には記載されず,発明の詳細な説明欄にのみ記載されている効果等を総合考慮することは,一般的に合理的な判断手法として許容されているところである。)。
また,カルベジロールをうっ血性心不全患者に対して「治療」のために投与する例が従来から存在すること,及び「治療」目的と「死亡率減少」目的との間には,相互に共通する要素があり得ることは,原告主張に係る取消理由2の4に対する反論としては,成り立ち得ないではない。すなわち,「『死亡率の減少』との効果が存在することのみによって,直ちに当該発明が容易想到でないとはいえない」という限りにおいては,合理的な反論になり得るといえよう。しかし,被告の論旨は,原告主張に係る取消事由4(「死亡率の減少が予測を超えた顕著性を有する」)に対しては,有効な反論と評価することはできず,その点は,既に述べたとおりである。」
裁判所は、以上のとおり、原告主張に係る取消事由4には理由があり、審決にはその結論に影響を及ぼす誤りがあることになるからその余の点を判断するまでもなく違法であると判断し、審決を取り消した。
【コメント】
本事件は、発明の作用・効果の顕著性が進歩性判断の決め手となった事案である。
本件判決では、引用発明と対比して、発明の作用・効果が顕著である(同性質の効果が著しい)場合又は特異である(異なる性質の効果が認められる)場合には、そのような点は当該発明が容易想到ではなかったとの結論を導く重要な判断要素となり得ることが判示された。
裁判所は、判決文でも明らかなように、「刊行物Aには,カルベジロールは虚血性心不全~の患者の症状,運動耐容能,長期左心室機能を改善する点の示唆はある」と判断している。この点からすれば、カルベジロールを「虚血性心不全患者」を「治療」する目的で使用することは、刊行物A発明に基づいて、当業者なら容易に想到することができ、さらに、特許庁が主張したように、「治療」目的の投与と「死亡率減少」目的の投与とでは実質的に区別できない構成である、または「死亡率の減少」は「治療」の延長線上にあるから当業者なら容易に想到できる構成である、と判断されて、当該発明は進歩性なし…という結論に至る可能性もあったように思える。
しかし、裁判所は、当該発明の「死亡率減少」という顕著な作用効果を看過した誤りがあるとの原告の主張(取消事由4)には理由があり、審決の結論に影響を及ぼす誤りがあることになると判断した。
進歩性判断手法の一般論として、引用発明から当業者にとっては容易に想到できる構成であるにもかかわらず、他方で引用発明と比較した効果が顕著であった場合、相違点の構成に到達することの容易性に重きを置くのか、作用・効果の顕著性に重きを置くのかは進歩性判断の結論を出す上で重要な問題である。
本判決では、取消事由4(顕著な作用効果を看過した誤り)のみが判断され、それ以外の容易想到性の判断の誤りに関する取消事由については判断されなかったため、判決後の差戻し審理で特許庁が、判決で判断されなかった相違点の構成に到達することの容易想到性と、作用・効果の顕著性とのバランスをどのように判断するのか期待していたのだが、特許庁は、「効果は、刊行物A発明からは、容易に想到することはできないと解すべきである」との判示事項により拘束される事項を「発明が刊行物A発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができないものである」と捉えて訂正を認める審決を下している(2012.01.19 訂正2010-390052)。発明の効果の顕著性が進歩性を肯定する十分条件とするならば、データ後出しによる発明効果主張の補強を寛容にするという近年の傾向(気のせいかもしれませんが。参考: 進歩性のための明細書記載要件; 2010.07.15 「P&G v. 特許庁長官」 知財高裁平成21年(行ケ)10238)は、第三者にしてみれば、特許成立予測可能性を困難にさせる懸念がある。
なお、上記訂正審決は確定したことによって、訂正前の特許請求の範囲に基づいてなされた無効審決(無効2007-800192)は、結果的に発明の要旨認定を誤ったことになり、違法として取り消された(2012.03.06 「第一三共 v. 沢井製薬」 知財高裁平成22年(行ケ)10140)。
参考:
カルベジロール(Carvedilol、第一三共の販売名: アーチスト(Artist)錠)はα受容体遮断作用を併有するβ受容体遮断薬である。日本では「本態性高血圧症(軽~中等症)、腎実質性高血圧症、狭心症」の効能で製造承認を取得し、「アーチスト錠10mg」、「アーチスト錠20mg」として1993年5月に発売された。さらに、「虚血性心疾患又は拡張型心筋症に基づく慢性心不全」の効能追加(錠10mg)及び慢性心不全用の低含量製剤として、「アーチスト錠1.25mg」、「アーチスト錠2.5mg」の剤形追加に係る申請を行い、2002年10月に承認された。
効能又は効果は下記のとおり。
○本態性高血圧症(軽症~中等症)
○腎実質性高血圧症
○狭心症
○次の状態で、アンジオテンシン変換酵素阻害薬、利尿薬、ジギタリス製剤等の基礎治療を受けている患者
虚血性心疾患又は拡張型心筋症に基づく慢性心不全
後発品には、「虚血性心疾患又は拡張型心筋症に基づく慢性心不全」の効能は記載されていない。
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