特29条1項3号の「刊行物に記載された化学物質発明」とは?: 知財高裁平成19年(行ケ)10120
【背景】
原告(藤川)が、被告(ファイザー)を特許権者とする「結晶性アジスロマイシン2水和物及びその製法」に関する特許(第1903527号)につき無効審判請求(無効2006-80058号)をしたが、審判請求は成り立たないとの審決がなされたため、同審決の取消しを求めた事案。
請求項1:
結晶性アジスロマイシン2水和物。
【要旨】
1. 取消事由1(新規性判断の誤り)について
裁判所は、
「特許法29条1項は,同項3号の「特許出願前に・・・頒布された刊行物に記載された発明」については,特許を受けることができないと規定するものであるところ,上記「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには,同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが,発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項参照)にかんがみれば,当該物の発明の構成が開示されていることに止まらず,当該刊行物に接した当業者が,特別の思考を経ることなく,容易にその技術的思想を実施し得る程度に,当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。そして,当該物が,例えば新規の化学物質である場合には,新規の化学物質は,一般に製造方法その他の入手方法を見出すことが困難であることが少なくないから,刊行物にその技術的思想が開示されているというために,製造方法を理解し得る程度の記載があることを要することもあるといわなければならない。」
との一般原則について言及した。
本事案については、まず、甲第2号証に本件発明(結晶性アジスロマイシン2水和物)の構成が開示されているといえるかどうかについて検討された。
裁判所は、
原告主張の刊行物記載の結晶が、アジスロマイシンの結晶であることはうかがえるものの、本願発明である「結晶性アジスロマイシン2水和物」という構成が開示されているものではなく、また、
記載されていた結晶学的データに基づいても「結晶性アジスロマイシン2水和物」が開示されていたものと認めることはできないと判断した。
さらに、
裁判所は、
「本件特許出願に係る優先権主張日当時における当業者の技術常識ないし技術水準に基づいて,甲第2号証の結晶Aの製造方法に関する記載から実際に結晶Aを製造することが可能であり(すなわち,甲第2号証の結晶Aの製造方法が追試可能であり),かつ,その結晶Aが現時点における客観的な資料に基づき,アジスロマイシン2水和物と認められるのであれば,甲第2号証は,本件特許出願に係る優先権主張日当時において,たとえその名称や化学構造が不明であれ,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物そのものを特定していたということができる。」
とまで踏み込んだものの、
「甲第5号証の試験を,甲第2号証記載の結晶Aの製造方法についての追試と認めることもできないから,結晶Aが現時点における客観的な資料に基づき,アジスロマイシン2水和物と認められるか否かにつき判断するまでもなく,甲第2号証が,本件特許出願に係る優先権主張日当時において,製造方法によりアジスロマイシン2水和物という物そのものを特定していたと認めることもできない。」
と判断した。
結局、裁判所は、
「以上によれば,甲第2号証には,その記載上,アジスロマイシン2水和物と特定し得る物が記載されているとはいえず,本件発明の構成が開示されているということはできない。したがって,発明の技術的思想の開示という見地から,甲第2号証に,本件発明の製造方法を理解し得る程度の記載がされていることが必要であるかどうかについて判断するまでもなく,本件発明との関係で,甲第2号証を特許法29条1項3号の刊行物に当たると認めることはできず,審決の理由4についての判断に,原告主張の誤りがあるということはできない。」
と結論付けた。
2. 取消事由2について
原告は、進歩性判断における再結晶操作への適用に関して主張したが、裁判所は認めず。
3. 取消事由3について
原告は、明細書記載の融点と添付文書記載の融点との整合性を攻撃する等により、本願発明が公知のアジスロマイシン1水和物と区別できていないから記載不備であると主張したが、裁判所は認めず。
請求棄却。
【コメント】
特29条1項3号における化学物質発明の引例適格性に関する一般原則が示された。
本判決によれば、特29条1項3号の「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには、原則下記の要件が満たされる必要がある。
・要件(1) 同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていること、に止まらず、
・要件(2) 当該刊行物に接した当業者が,特別の思考を経ることなく、容易にその技術的思想を実施し得る程度に、当該発明の技術的思想が開示されていること。
そして、当該「物の発明」が新規の「化学物質の発明」である場合には、要件(2)を満たすために、製造方法を理解し得る程度の記載があることを要する。
特許・実用新案審査基準(第Ⅱ部 第2章 新規性・進歩性)によれば、特29条1項3号の「刊行物に記載された発明」について下記のように記されている。
1.5.3 第29条第1項各号に掲げる発明として引用する発明(引用発明)の認定
(3) 刊行物に記載された発明
②また、ある発明が、当業者が当該刊行物の記載及び本願出願時の技術常識に基づいて、物の発明の場合はその物を作れ、また方法の発明の場合はその方法を使用できるものであることが明らかであるように刊行物に記載されていないときは、その発明を「引用発明」とすることができない。
したがって、例えば、刊行物に化学物質名又は化学構造式によりその化学物質が示されている場合において、当業者が本願出願時の技術常識を参酌しても、当該化学物質を製造できることが明らかであるように記載されていないときは、当該化学物質は「引用発明」とはならない(なお、これは、当該刊行物が当該化学物質を選択肢の一部とするマーカッシュ形式の請求項を有する特許文献であるとした場合に、その請求項が第36条第4項第1号の実施可能要件を満たさないことを意味しない)。
本判決で示された特29条1項3号の「刊行物に記載された発明」とは何かについての一般原則は、上記審査基準に示された内容にほぼ沿った内容である。
そして、本件で具体的に問題となったのは、上記審査基準の記載部分で相当するところの「刊行物に~その化学物質が示されている」か否かという点であり、裁判所は、刊行物の記載からでは「化学物質名又は化学構造式」が不明であったとしても、出願時点(優先日)での製造可能性及び現時点での客観的同一性が認められれば、その刊行物はその「化学物質」そのものを特定していたということができるとはっきり判示した点は評価できる(ただし、裁判所は上記要件(1)のなかで製造可能性を考慮しており、上記要件(2)と重複してしまうことから、製造可能性という点を上記要件(2)との関係でどのように整理したかったのか、個人的には裁判所の判決ロジックに少々混乱。)。
ところで、本事案は、公知アジスロマイシン1水和物結晶を引例としてアジスロマイシン2水和物結晶の進歩性が争われた結果、裁判所が進歩性を認めたケースでもあり、今後の結晶多形出願における進歩性主張の参考になる。
また、第三者から、実際のプロダクトと明細書記載のものとのデータが食い違っているとの攻撃材料を与えないためにも、明細書の記載内容は可能な限り将来の製品情報(例えば添付文書情報等)と一致するように勤めなければならないといういう点も本判決からの教訓だろう。
参考:
- アジスロマイシン水和物(azithromycin hydrate): ジスロマック®(Zithromac®)としてファイザーが製造・販売するマクロライド系抗生物質。2水和物である。
- 2008.06.30 「シオノケミカル v. ファイザー」 知財高裁平成19年(行ケ)10378
- 記載要件/引例適格/データは必要か
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